マティス展

ある患者さまから、「ブログが最後に更新されて2年近く経ちますが・・・」と言われた。確かに。コロナ禍のためあまり出かけることもなく、ブログに書けるような題材もなかった。それからさらに半年ほどが経った。
今春から新型コロナ感染症も5類感染症に移行し、世の中は少しずつ開放的気分に満たされていった。今では巷でマスクをしない人たちも多くなってきた(それでもなぜか埼玉県民だけはかなりマスクをしているようだ)。ちょうど同じ季節から、上野の東京都美術館でマティス展が開かれている。

マティスは好きではないし、分からない。
単純な線、単純な色の群れ、一見稚拙にも見える形・・・。
昔から冗談で「小学生が描いたような絵だ」などと言い放っていたものだ。
ネガティブな感情を抱くということは、まんざら無関心でもないということでもある。そんなわけで先日、このマティス展をあまり期待せずにぶらりと訪れた。

一人の画家A氏を名乗った「A展」と名乗る美術展は多いものだが、実際に足を運ぶと「Aとその仲間たち展」だったりすることが多い。Aの作品は数点しかなく、しかもごく初期の作品も含まれていたりしてがっかりさせられる。しかし、このマティス展は違った。すべてがマティスの作品だったのだ。東京都美術館にこれほどマティスの絵画を集めるだけの力量があったとは。ポンピドゥー・センターの改装のタイミングに合わせてという幸運もあったであろうが、けっこうすごいことである。そういえば数年前にこの美術館が開催したクリムト展もなかなか良かった。

画家のスタイルは、一生にわたって一貫して同じということはなく、人生のなかで何度か紆余曲折を経ることが多い。マティスもまた同様にその画風がコロコロと変遷したり、元に戻ったりと忙しいが、究極は対象を単純化・抽象化していって、どこまでその本質を失わずに迫ることができるか、ということなのだろう。

特に焦点は「色」なのであろうが、色を持つ油絵や切り絵の作品群は、あいかわらず正直解らなかった。フォービズムはよく感得できないのだ。対照的なピカソもまた、心惹かれるのは青の時代、薔薇の時代まで。その後のキュビズムとわたしは相性がよろしくない。唯一無二のスタイルであることはわかる。フランスのこの温暖な南部地域で思い出されるゴッホ(プロヴァンス)、シャガール(コートダジュール)とも違う。単なる装飾としてはおもしろいのかもしれないが、彼の芸術が美の形式として成り立つ必然性がよくわからない。
「単純化・抽象化してなおかつ対象の本質をついている」、この理念は理解可能だ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、美術・音楽などの芸術、学問である数学なども同じ方向性を向いていた。これは偶然ではないだろう。形式科学である数学はこの理念(この場合は抽象化・一般化というべきか)によって大きく発展・進化したが、芸術はどうなのだろう。音楽は、シェーンベルクの無調音楽以降、聴衆を魅了する作品をいくつ創りえたであろうか。今、21世紀も四半世紀を終えようとしているが、いまだ成功していると言い難いと思う。今後の歴史の判断にゆだねるしかないが。

しかし一方、当然かもしれないが、あのわけのわからないピカソ同様に、彼のデッサンは超一流である。至上ともいえる美しい線、対象である人物を簡単な線で捉えてなおその人物の顔の本質をとらえている。
かなりの期間、ヴァンスを拠点をしていたという。若い頃、この町を半日だけ訪れたことがある。コートダジュール地方は前方に地中海を、背中にはフランス・アルプスに連なる山脈を背負っている。ニースから北方に山々をつたっていく山間にこの小さな町がある。あまり印象はなく、なんとなく街並みが暗かったかなというぼんやりした記憶しかない。

さて、マティスをくさしてしまったかもしれないが、美術展としては一流だ。久しぶりに図録も買った。マティスに興味のある方は見逃されませんように。