コロナ禍と終わりの始まり

前回ブログを更新して、すでに8か月。前回の更新も当時のイベントではなく、更新時からさらに半年以上前の出来事であった。苦し紛れの更新だったわけだ。
そう、これはすべてコロナ禍のせいである。去年の2月以降、主だった催しに出かけることもないので、書くことがなくなった。街の様相も一変し、人々の生活も変わった。
まるで時代が一変したかのような印象もあるが、きっと10年後には多くの事件のひとつとして思い出されるのであろう。

コロナ禍のせいで「コロナうつ」が増えたというマスコミ報道もあるが、診察室のからは巷の様子はわからない。否、この診察室から観る世間の様子にはちょっと解離がある。
「コロナうつ」というが、正確には「コロナ恐怖症」と呼称すべきであろう。うつ病というよりも不安障害の範疇に入るのではないか。もっとも不安障害から(内因性)うつ病に移行することはあるであろうが。

コロナ恐怖症に罹患した方々は、基本的に感染恐怖のために外出することができない。コロナを恐怖して当然だと確信しているから、自らの恐怖が病的なまでに過度であり、日常生活に支障が出ていることに気づかないかもしれない。したがって病院・クリニックを受診する動機が存在しない。したがって、クリニックにはコロナを恐怖する人々であふれることはない。もちろん、全くいらっしゃらないわけではないが、まれである。

一方で、コロナ禍のせいでテレワークになった勤労者の方々が増えた。テレワークのおかげで、例えばストレスの元凶であったパワハラ上司に会わなくて済むために、ストレスが軽減され、毎日が快適だという。そう。皮肉なことにこの診察室という密閉空間から観える世の中の多数派は、コロナ禍のために「幸せ」になった人々なのだ。なんという皮肉だろう。

きっとコロナ禍は収束するとしても、消退していくのは半年~年単位だと思われる。
それほどの長期間であるならば、社会のあり方が変わり、人の生き方も変わるかもしれない。多くの患者さまから聞く世間の動向は、そんな大きな世の中のうねり、変革を予感させる。変革 ― つまり何かが始まり、何かが終わっていくのだ。

最近は人生のなかの様々な事象にも、始まりがあるものには必ず終わりがあることを痛感する機会が多くなった。それは、人間関係、特に旧来の友人の死去であったり、長年通ったライフワークの終了予告であったりもする。人生が有限であることは自明の理であるが、終焉を現実のものとして自覚することはあまりなかった。それをまのあたりにして戸惑いを隠しきれない。
物事を始めることは易しいが、終わることは難しい。特に心の問題として終わらせることは難しい。それが会社組織であっても個人であっても、変わりはない。さて、終わりをむかえるものに対してどう心を整理していくのか。数年かけて熟考していくべき、これからの課題である.